歴史

新宮町に残る貴重な文化遺産!

相島に伝わる2つの歴史

 相島には5世紀頃の古墳のひとつである積石塚が254基存在する「相島積石塚群」と17世紀に江戸幕府と朝鮮の国交回復を目的とした使者「朝鮮通信使」の中継地として用いられた島としての歴史が残されています。相島積石塚群は海人族と呼ばれた船での運送、貿易を行う海に勢力をもっていた部族の墓ではないかと推測されています。内部は盗掘を受けていましたが、一部の積石塚は無事であり考古学的な価値の高い遺品が出土しています。その歴史的価値の高さから国指定史跡として登録されています。また、相島は朝鮮通信使の航路として対馬の次の中継地点に用いられた島でもあります。朝鮮通信使をもてなすために、島には専用の波止場「先波止」と「前波止」が築かれ、来訪のたびに新たな宿舎が建てられました。現在では宿舎は残っていませんが、波止場は現在も残り続け、特に「前波止」は相島の連絡船の船着場として今でも活躍しています。

最澄・立花道雪・豊臣秀吉の足跡の残る新宮町

 新宮町本土は天台宗の開祖最澄、戦国時代にこの地を治めていた武将立花道雪、そして天下統一を成し遂げた太閤豊臣秀吉にゆかりのある数々の史跡が残されている地です。9世紀初頭、最澄が唐から帰国して初めての天台宗の寺「独鈷寺」を建てる際に世話になった源四郎という人に唐より持ち帰った法火、毘沙門天像と横大路姓を授けました。横大路家は現在まで家系と家を守り続け、その住宅は「千年家」と呼ばれるようになりました。この地を治めた立花道雪は毛利、島津と戦い続けた大友氏の家臣の戦国武将です。大友軍の中でも立花は最強の軍勢と呼ばれ、彼の指揮下において合戦の大敗は一度も無かったといわれています。その立花道雪の居城、立花城はその名の示す通り立花山に築かれ、彼の墓も同じ立花山に建立された梅岳寺に祀られています。豊臣秀吉は九州平定の帰路において、堺の商人である津田宗及がこの地で掘った井戸の水で淹れた茶を飲み、非常に清いと満足したといわれています。このことから、この井戸の水は太閤秀吉が飲んだ「太閤水」と呼ばれるようになりました。

千年家
太閤水